夢を見たような気がする。いつもの感覚だった。見たことは覚えているのだが、何を見たのかは覚えていない。
 眠気の残る目を叩き起すように強く瞬きをする。携帯電話で時刻を確認すると、午前十時であった。近所の本屋がそれくらいの開店時間だったことを思い出す。
 そうだ。本屋。職探し。
 予定を思い出し、億劫になる。怠け癖がついたかもしれない。
 適当にシャワーを浴び適当に着替え、洗濯機に昨日来たシャツを放り込んだところで自分の空腹に気づく。そういえば、夕飯を食べていない。冷蔵庫を覗いてみると、一食分のカレーが入っていた。作ったのは三日前だが、腐ってはいないだろうか。食べれるカレーと腐ったカレーの見分け方など知る由もないが、見た感じ大丈夫っぽいので、インスタントの白米を温めそのカレーをかけた。風味も、きっと大丈夫だろう。食べてみたが、やはり変化した点を見つけられなかった。
 寝癖を手ぐしと気合で直し、財布と携帯電話だけ持って部屋を出る。ドアを開けた瞬間、熱風が顔面に吹きつけられ、顔をしかめた。昨日よりも暑いかもしれない。

 本屋は全国に展開しているチェーン店で、この支店には数回しか来たことなかったが、なんとなく懐かしさに似たものを感じた。故郷にもあったからだろうか。中学生のころ、毎日のように立ち読みに行っていた事を思い出した。そういえば、最近本を読んでいない。再就職したら、真っ先に本を買いたいと思った。
 開け放しの自動ドアには色とりどりの広告が貼られていて、どれも映画やこの本屋の宣伝チラシであった。興味が無いので目を通さずに先を急ぐ。
 店内は広々として開放的であった。天井にあいた通気口のようなものから冷気が吐き出される。体温が急速に下がっていく感覚が、非常に心地よい。
「……」
 静かな店内を、ゆっくりと探索していく。求人情報誌は入口のそばにあったのだが、どうせ帰ってもすることが無いのだし、少し立ち読みしていこうと思ったのだ。
 文庫本売り場や話題作(らしいが、俺はタイトルを聞いたことも無かった)を紹介しているコーナーを一通り見て、気がつくと、家を出発してから二時間ほど経過していた。金属質の素材で出来た近代的なデザインの時計は、十二時を少し超えたところを指している。
 都内版の求人情報誌の中から、一番安価なものを選びレジへ持っていく。どこへ行っているのだろうか、レジに店員の姿は無かった。店員を待つ間、情報誌をカウンターに置き、財布の中身を確認する。ここまで来てから「払えないので戻しておいてください」と言うのは、あまりにも恥ずかしい。高校のころから使っている革製の財布は軽かったが、野口英世の存在が確認できたので事なきを得た。

 待つこと五分。もうそろそろ現れても良いんじゃないか?
 店内には、冷房機の作動音だけが響いていて、不気味なほど誰もいなかった。そういえば、この本屋に入ってから俺は違和感を感じていた。最初は、故郷の本屋との違いを感じていたのだと思っていたのだが、今になってようやくその正体に気がついた。
 BGMが鳴っていない。
 どうりで店内が静かなわけだ。
 前回来た時、ボリュームが大きすぎて頭が痛くなったことを覚えているから、間違いないと思う。この本屋は、いつも音楽を流していた。
 静けさが目立つのは、俺以外に客がいないせいだろう。故郷の本屋では客がいないことなど不自然でもなかったが、都内の、しかも住宅地に隣接するこの大きな書店に人が皆無であることはかなり珍しいのではないのだろうか。
 もしかすると、今日は定休日なのではないのだろうか。
 そんな考えが閃き、そして消えた。定休日なのであれば照明や冷房が付いているわけがないし、何より、故郷の本屋には定休日など無かった。チェーン店であるこの店も、それは同じだろう。
 カウンターに身を乗り出して裏を覗いてみたが、誰もいない。店内にも勿論人が居らず、入口から誰かが入ってくる気配もない。という事は。
「……いいんじゃないか?」
 誰に問いかけるでもなく、自然に口からこぼれ出た。
 万引き、というよりは、白昼堂々の犯罪、窃盗。
 自慢ではないが、俺はこれまでの人生で、一度も法に反することをしたことが無かった。勿論これからもそうだと思っていたが、状況が変われば心情も変わるものだ。ここで法を犯すデメリットが無い。防犯カメラには映っているだろうが、前科のない俺ならば、見つかる可能性は少ないはず。
 いやしかし。もし見つかった場合のデメリットは大きい。窃盗罪への罰はどれくらいのものなのか見当がつかないが、それでも、前科の有無はその後の俺の人生を大きく左右するだろう。主に再就職の面において。
 犯罪の誘惑と良識(というか損得勘定)が、胸中でせめぎ合う中、取りあえず出た結論。
 あと五分待って、それでも店員が出現しないのであれば、ありがたく頂いていこう。

 一歩一歩地を踏みしめるたびに、自分が死んでいくような気がする。
 足の裏から細胞が、私が死んでいって、それがどんどん進行して、気付いたころには頭まで死んでいるのだ。頭が死ぬというのがどういうことかと言うと、例えるなら私の妹。妹は頭が死んでいるのか心が死んでいるのか分からないけれど、妹がそうなった時、お母さんは「眠っている」のだと表現した。昔はその意味が分からなかったけれど、今はその表現が不当だということが分かる。妹は間違いなく体以外の何かが死んでいる。
 腹筋を使い起き上がる。ベッドのスプリングが、挨拶代わりなのか嫌な音で鳴いた。
 寝起きは、視界がかすむから嫌いだ。血圧とかは分からないけれど、朝は苦手じゃない。毛布や落ちている洋服を蹴飛ばして、椅子に掛けてあったはずのコートを手さぐりで探した。あまり時間をかけずに見つかったけど、腕を通す位置を迷ってイライラした。
 朝ご飯は、あまり腹が減らないのでいらない。寝ぐせなんてどうでもいい。
 腕を通すのも面倒だったので、コートは肩にひっかけた。
 いつもの日常、いつものスタンス。
 これが私で、これではない私は私ではない。
 私は今日も、妹に会いに行く。
 玄関から外へ。
 一歩踏み出して、私は私が死ぬのを感じた。



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