きみのいないそらのしたで

 明るいところで目を瞑ると、視界が真っ赤に染まって見える。きっとそれは、瞼の裏に伸びた血管の色を見ているだけなのだろうが、俺はそれよりも鮮烈な赤色を見たことが無かった。深い赤、血の色。俺は、夏になると何故だかその色を思い出すのだった。
 上京して、二回目の夏。
 去年もこんなに暑かったのだろうか。覚えていない。去年の今、自分が何をしていたのかさえ覚えていない。記憶力の乏しさは前々から自覚していたが、去年の自分でさえ覚えていないとは……心外という程でも無いが。一昨日の晩御飯なら覚えている。カレーライスだ。昨日の朝御飯、昼御飯、夕御飯、今日の朝御飯もカレーライスであったと記憶している。一人暮らしをしているくせに、作り過ぎてしまったのだ。何を血迷ってしまったのだか、親からの仕送りと共にさまざまな香辛料が送られてきてしまったので、取り敢えず本格的(だと思うが、インドに行ったことが無いのでわからない)に作ってみた。香辛料を消費できる料理を他に知らなかったのだ。
 それにしても、無駄に暑い。立っているだけで汗がにじんでくる。額から流れ出た汗が鼻梁の横を伝って、唇に到達する。舐めるのもなんとなく嫌だったので、腕でぬぐい去った。
 自分が住むアパートの古びた外壁を見ながら、ふと思う。
「……桑本? 何してんの」
 俺は何故ここにいるのだろう、と自問しようとしたところで、誰かに先を越されてしまった。不完全燃焼という不快さはすぐに消えて、誰何しながら振り向いた。
「俺だよ。こっちに来るって、メールしただろ。で、何やってんの、桑本は? 家庭菜園?」
 友人は、怪訝そうな顔つきで、俺に問うた。
 見降ろすと、スコップを持ちアパートの狭い庭先に立つ俺がいた。

「いやあ、地底人と会話したいなあ、なんて思ってさ」
「は?」
 先ほどの奇行――我ながらそう思う――を弁解する俺を、友人は見下した目で見つめる。
「ほら、ここのところ他人と会っていなかったし、人恋しくてさ」
「……ニートめ。職探せ」
 先ほど買ったという大量の缶ビールを、コンビニのロゴが入った袋から取り出し、友人がうめく。誹謗中傷はいけない。ニートなどという蔑称で呼ばれるのは心外だ。
「俺は職につかないのでは無くて、つけないんだ。Not in Employment, Education or Trainingでは無いからにして念のため」
「なんだそれ」
「これだからゆとり教育は」
「ニートであるお前に言われたくないし、お前もゆとり教育から外れていない」
 あれから、特に外にいる理由も無かったので、俺の部屋に入った。必要最低限のものしかない殺風景な部屋は涼を与えてくれるわけでは無かったが、日差しのあるなしで体感温度は格段に違う。少しでも放熱するためにと友人は酒を飲みだしたが、俺は水で我慢していた。理由は二つ、俺は酒が飲めないこと、友人がジュースをおごってくれなかったこと。それだけビールを買う金があるのなら、一本くらい買ってきてくれたっていいじゃないか。
 氷が入ったグラスを持ち上げみつめる。塩素の匂いが嫌いで水道水が飲めない人がいるそうだが、味音痴な俺は、特に気にしていなかった。一気に飲み干すと、大きめに砕かれた氷が唇に当たって痛かった。
「仕事、無いのか?」
 友人が問うてくる。
 小気味よい音をたてて開いた缶が鈍く光を反射し、こちらの目を奪う。金属特有の光沢が、視界に焼きついた。
「世の中は不景気らしくて。探す努力をしない俺は時代の申し子だと言い張ってみる」
「悲しきかな現代社会。お前みたいなのが死ねば少しはましになると思うよ」
「殺生だなあ。そういえば、お前は? 仕事どうしたの?」
「は。今日日曜だろ?」
 仕事を辞めてからは、曜日感覚も狂ってしまった。
 俺と友人は、同じ会社で働く同僚だった。高校、大学と同じで、覚えてはいないのだが、小学校も同じだったらしい。言うなれば、幼馴染というやつだった。親友と言える間柄なのかは分からないが、目立った喧嘩もしたことがないし(先ほどの中傷は一種のコミュニケーションだと信じている)、特に嫌な奴でもないので、これからもこうやってつきあっていくだろう。
「でもさ、本気で仕事探した方がいいぞお前。つかさ、何で辞めたの? 俺、未だに理解できてないんだけど」
 二本目を缶を開けながら、友人。昼からそんなに飲んでも良いのだろうか。ビールは友人の金で買ったものなので問題ないが、酔いつぶれるのは勘弁してほしい。なぜなら面倒だから。
「あー、なんかさ、何でか分かんないけど、課長怒らせちゃって。辞めろ、とかなんとか言われたから、売り言葉に買い言葉ってやつで辞めちゃった」
 理解不能の静けさが広がる。何故、と聞かれたから答えただけなのに。
 たっぷり十数秒――俺が水を汲んで戻ってくるほどの時間――をかけて、友人は理解したようだった。大げさに頭を振って、額に手を当てる。黒く太い指が見え、こいつが元野球部員だったことを思い出した。
「あああああ。馬鹿だこいつ、と俺は今心の中で失望している」
「なんで? 辞めろと言われたら辞める、素直な元社員だろ」
「ごみ。くず。ニート。死ね。底辺。馬鹿」
「語彙が少ないなあ。言うんだったら徹底的に言わないと。お前が人間社会の底辺にいるのはその無能さゆえであり、基礎知識や常識は勿論物事の応用力が欠けているため人間が生きるために必要な事柄のほとんどが達成できていな――」
「お前、まじで、そんな理由で辞めたの? 本気?」
「ん。途中で遮られたのがやや不満だけど」
「……もういい。大丈夫。俺はお前の社会的屍を乗り越えてしっかりやっていくから」
「うむ。青年はそうやって未来へと羽ばたいていくのだな。完」
 太陽が少しだけ傾き、部屋に入射する光が強くなる。
 友人の蔑みを込めた視線が強くなるのを自覚しながら、眩しさに目を細めた。

 買ってきたビール全てを飲み干して、それでいて全く泥酔の気配を見せずに友人は帰って行った。友人が酒豪であることは分かっていたが、アルコール中毒などにはならないのだろうか。もし死んだら、友人のよしみで遺産を残してくれたら助かるのだけど。
 深い青色のカーテンをめくり、窓から友人の後姿を見送る。白いTシャツが夕方の赤い陽を浴びて、どことなく哀愁を醸し出していた。
 しばらくは風景を眺めていたが、飽きたので目を離す。変哲の無い日常。地震でも起きれば良いのに。生きるか死ぬかの境地に立たされて見たいと思う。もしそういう機会があれば、多少面倒だが、それを楽しんでみたい。
 カーテンを力任せに閉めて、そのまま数歩後退し後方に倒れ込む。倒れる途中で、背後にベッドが無かったらどうしようかと考えたが、無事着地できた。ぼふ、と自重で布団の中の空気が抜ける。カーテンよりも柔らかい質感に包まれ、眠気が誘発された。腹は減っているが、このまま寝てしまっても良いかもしれない。つくりおきのカレーを思い出し、口の中に唾がたまる。喉を鳴らして飲み込むと、空腹は多少誤魔化された。
 “仕事、無いのか?”
 友人の言葉を思い出す。
 無いことはないだろう。アルバイト程度なら、どこかで募集しているはずだ(と思う)。車を買うために貯めておいた少ない貯金も、もうすぐ尽きる。明日起きたら、働き口を探しに行こう。本屋に求人情報雑誌が置いてあったはずだった。
 瞼が落ち、意識が薄れていく。働かない頭で友人の言葉を反芻し、俺は眠りについた。



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