ラッシュアワー、喧噪、鳴りやまぬ其れは

「ううあううああああああううううあああ…………」
 騒音、轟音、喧噪、雑音……。
 違う、そんなんじゃあない。そんな簡単なものじゃない。
なんだっけ。こういうの、なんて表現すればいいんだっけ?

 その日、僕は何もしなかった。
 いつもと同じように、朝食をとって音楽を聴いたり本を読んだりして午前中を過ごして昼食をとって気だるい午後をネットサーフィンでうめて夕方には花に水をやって夕食をとって風呂に入った。
 あまりにもいつもと同じだったんで、夜くらいは散歩にでも行こうと思ったんだ。

 くたびれた白いスニーカーを履いて外に出ると、生温かい夏の夜風が頬を撫でた。じんわりと肌に汗が浮かぶ。僕は不快感に眉を顰めた。
 家の前を走る長い直線道路には人気がなく、車すら通っていなかった。夜の大気を伝ってどこか遠くの工場から出る騒音が聞こえた。微かなその音と僕の悲鳴以外、何も聞こえなかった。喧しい音楽も好きだけど、こういうバラードみたいな静けさも大好きだ。

 無人の公道を一人歩いて行くと、ぽつりぽつりと住宅が増えてきた。もうすぐ大きな道に出るだろう。何の目的も無しに歩いてきたが、これからどうしようか。街に出ても何もすることがないし、何より財布を持ってきていない。金品を持ってきていないと何となく安心できる。スリや通り魔等から狙われない。もとより、財布を持っていようがいまいが僕なんかを狙う阿呆もいないと思うけど。
 街に行く意味が無いとすると、どこへ行こうか。いや、散歩なんてものに意味を求めても無駄なのかもしれない。しかし、折角ここまで来たのだからどこかへ行きたい。海へ行こうか。街を過ぎたところに、海があったはず。少し遠いけれど、僕は海へ行くことにした。

 高層ビルや住宅街、ショッピングモール街など、街は建築物で賑わっていた。街に来るのは久しぶりだ。最後に来たのは……覚えていない。きっと、半年程前だと思う。
 喧しい音楽は好きだったが、都会の喧騒は嫌いだった。煩わしい雑音は、僕の悲鳴と共に不協和音を奏でる。夜だというのにこの音量は非常識だと思う。いや、僕の方が非常識なのかもしれない。そもそも、常識という言葉の定義を僕は知らない。常識を知らない僕は非常識にすら当てはまらないのでは無いのだろうか。では僕は何だろう? もしかしたら、人間じゃないかもしれない。

 歩道橋の上から見る景色は、人工的ではあったがなかなかのものだった。赤や橙の車のライトが飛び交う夜の道路。眩しさを抑えたその光は残像が重なり人玉のようだった――人玉なんて見たことは無いが。僕の中の人玉はイメージでしかなかった。もう少し幻想的だったらなあ、なんて、無駄な要望。人生で大切なのは割り切る事だ。無駄にこだわってはいけない。これは、20年近くこの世を生きた僕の人生論。

 なんだか、急に動くのが嫌になった。疲れたのかもしれない。家からここまでどれ位の距離だったのだろう? 一キロ、二キロ……三? 四? 詳しい距離は推測しがたいが、普段の運動量と比べると体を使っただろう。疲労するのも無理はない。
 僕はしばらく歩道橋に留まることにした。
 手すりに肘をつき、身を預ける。鉄製の手すりは所々錆びていてちくちくと肌を刺したが、冷えた鉄は気持ちよかった。不快感もあったものの、僕の中では後者の方が勝りこの体勢はなかなか心地よかった。
「ああああああああああ…………」
 悲鳴の一部が半開きの口から洩れる。
 悲鳴。
 脳内で叫ぶようになったのは、いつ頃からだったろう。
 気づけば叫んでいた。意味のない怒りや憤り、焦燥、歓喜さえ言葉で表せず、僕は感情全てを咆哮に込めた。

 僕は、言葉というものを知らない。僕から発せられる全ての音は、悲鳴の一部であると信じている。行き場を失った音たちが体の内で暴れまわり、極稀に、表へ出てきてしまうのだ。小さな音ならば問題はないと思う。けど、以前に一度だけ、大衆の面前で叫んでしまったことがあった。まだ学生時代だったと思う。何の授業だったのかは覚えていない。いや、それだけでは無い、その出来事に関しては殆どのことを覚えていない。後日教師から僕の両親へ伝わり、またその後に母親から聞いたものだった。授業中、僕は何を思ったのか突然教室を飛び出したのだそうだ。獣が如く吠え、叫び、学校を混乱の渦に巻き込んだらしかった。気を失った僕が発見されたのは何と二日後で、その事件を機に僕は精神科へ通うはめになった。
 自分が何をしたのかよく分からなかったが、漠然と「やってしまった」ということだけは認識できた。当時僕は愛し合っていた人が居たのだけれど、その人ともその日を境に話していない。というより、両親以外の人間とまともに会話できなくなった。誰とも眼を合わせられなくなった。
 恐ろしかった。自分が怖かった。
 何度も泣いた。けど、泣いても何も起こらなかった。愛した人が戻ってくるわけでもないし、脳内の悲鳴が止むわけでもない。もう、戻れない。何もかも終わってしまったのだ。

 両親が他界してから、本格的に他人との触れ合いが無くなった。別れを知った僕は、両親の遺産で誰もいない郊外に小さな家を建てた。墓といっても良いかもしれない。家を買ったとき、僕はそこで死んでも良いという覚悟を済ませた。
「ああああああうあうああああああああああううううう……」
 悲鳴が夜風にさらわれる。涙が自然と流れ出た。
 ああ、また泣いてしまった。
 変わらないものなど何もない。スニーカーだって、履いているうちに壊れてしまうじゃないか。
 終わらないものなど何もない。庭にある花だって、奇麗なのはほんの少しだ。
 失ってしまったものは戻らない。愛した人も、死んでしまった両親も、もう会えないんだ。
 分かっている。僕は、それを知っているんだ。けど――。
 遠くの光が涙で滲む。夜の闇と水彩画のように混じり合って、景色は醜いものとなった。
 海へ行くのは止めにしよう。今海へ行ったら、僕は自分の手で命を絶ってしまうかもしれない。
 服の袖で涙を拭った。目が痛かった。口からはまだ悲鳴が漏れている。口を閉じた。脳内での音量が上がっただけで、何も変わらなかった。踵を返すと、鉄筋がスニーカーとの摩擦で小さく悲鳴を上げた。
「ああ」
 せめて。
 僕は何も要らない。だから、せめて。
「僕から感情を取り除いてください」
 僕の願いを叶えてくれる人物なんていない。それくらい、分かっている。割り切っている。



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