戯曲「蝶の残照」

男「あなたは神様ですか」
x「いいえ、違います」
男「悪魔ですか」
x「いいえ、それもまた違います」
男「では、天使ですか」
x「私は神でも悪魔でも天使でもありません。私は私です。あなたを終わらせる、そう、言うなれば幕引きのようなもの」
 ――戯曲「神様と蝶のワルツ」より

 *

 小さい頃、蝶を収集していたことがある。外で蝶を捕まえて、丁寧に展翅してから箱にしまうのだ。種類を集めることに拘っていたわけではない、どんな蝶でも良かったのだ。展翅する時が一番好きだった。美しい翅をピンで貫く、その作業が堪らなく愛おしい。今はもう収集していないが、かつて愛した蝶の屍たちは現在も私の部屋で眠っている。

 両親が役者だったためか、気付いた時には舞台に立っていた。古い劇場、多いとも少ないとも言えぬ観客。仄暗い客席から舞台を見つめる眼球、その前で私は演じたり歌ったりを繰り返す。仕事、というよりは日課と称す方がしっくりきた。事実私は給与をもらっていたし、ビジネスとして成り立ってはいたけど、仕事をしようと思って役者をしているわけではなかった。
 私の十三の誕生日を迎える前に、母はいなくなった。とても好きなひとがいて、そのひとのために家族と劇場を捨てたらしい。父が舞台の隅で自殺をした夜、団長にそう聞かされた。私が劇場にいる理由はその時でなくなってしまったわけなのだけど、私は今でも役を演じ続けている。何故か、それはわからない。

 *

 狂った女が最後の台詞を叫び、幕が下がる。目じりが切れそうになるほど開かれた目に瞬きの休息を与え、私は舞台から掃ける。幕を隔てた向こう側で、団長が挨拶をしているのが聞こえた。
 舞台袖から客席へ抜けていくと、以外にも残っている観客が多いことが分かった。皆、団長の蛇足とも言える演説を聞きたいのではなく、ただの惰性で残っているのだろう。幾人か、こちらを見て訝しげな顔をした。先ほどまで舞台上にいた人物を間近で見るのに違和感があるのかもしれない。
「お金持ちなの?」
 声をかけたのは、今の劇を見ていた観客のひとりだ。男の姿には見覚えがあった。ここの演劇をよく見に来ていたのだ。
「どうして?」
 男はいつも新聞を読んでいた。劇場の片隅で閃く新聞が、私はずっと気になっていたのだ。わざわざ金を払ってまで劇場に来ているのにそこで新聞を読むなんて、よほどの金持ちでないとそんな贅沢はしない。そう説明すると、男は微かに笑って言った。
「そこまでお金は持っていないけど。劇場の、雰囲気が好きなんだ。一つの空間に二つの世界が広がっている、不思議な雰囲気」
 古いコートを着込んだその男は到底ブルジョアには見えなかったけど、否定こそしないものの、きっとそうなのだろう。現在客席に座っていることが何よりの証拠だ。
 男の持つ新聞を眺めていると、ふと、とある案を思いついた。
「こちらの世界から見てみたい、とか、思う?」
「いいの?」
 嬉しそうにこちらを見上げる男に、明後日の開演三十分くらい前にここで待っていることを告げる。何故、こんなことを提案したのかは分からない。きっと、意味は無いのだろう。私が役者になった経緯くらい、それは意味の無いことなのだ。

 *

 男は名をハクヤという。本名なのか偽名なのかは分からない。しかし、私が彼を呼ぶにあたってそれは何の不都合も無かった。
 ハクヤは舞台袖から一心に役者や客席を見つめていただけで、特に何の反応も見せなかったのだが、良く分からないうちに満足していたようだった。お礼をしたいのだけど。そんな彼の厚意を尊重して、私たちは現在街のレストランにいる。
 彩度の低い店内で、あちこちに置いてある蝋燭の灯かりだけが心細そうに揺れている。品の良い静寂が漂う店内からして、ハクヤが金に困らない職についていることは容易にうかがえた。
「今日は、ありがとう」琥珀色のワインに口をつけ、彼は微笑みながら礼を言った。
「別に、私が何かをしたわけじゃないから。こちらこそ、御馳走になってしまって」
 ありがとうという言葉を省略しながら、応える。ハクヤは微笑みを浮かべているだけだった。笑顔が綺麗なひとだ、と思う。よく見ると彼は整った顔立ちをしている。もしかしたら、同業者なのかもしれない。だとしたら、あの提案を受け入れる意味は無いとは思うけれど。
 時たま、ひとことふたこと会話を交えながら、ディナーは消化されていった。その間、彼はずっと笑みを浮かべていた。

「また、見に行くよ」
 レストランの前、月明かりの下でハクヤはそう言った。
「また、こちらの世界から覗いてみたくなったら、声をかけていいよ」
 じゃあ、と片手を振る。
 踵を返し、そのまま家路につこうとして、やめた。
「ハクヤは何の仕事をしてるの?」
 何とはなしに、問いかけてみた。
「天使って言ったら笑う?」
「羽根でも見せてくれたら、信じる」
 貴族、ということだろうか。優雅すぎる冗句に苦笑しながら、私は答える。
「いいよ」
 刹那。ハクヤの影がふるえた。音も無く、突然に、彼の背中に羽根が現れる。宗教画でよく描き表されるような、真白の羽毛。
「信じた?」
 事もなげに微笑むハクヤ。
 小さい頃に、蝶を収集していたことがあった。
 思い出すのは、ピンを刺していく感覚。
 蝶の空を、自由を奪う、あの感覚。
 何故今になって思い出したのだろう。
 ハクヤはまだ、笑っている。

 *

 どうやって家路についたのか、わからなかった。いつの間にか私は自宅の布団に潜り込んでいて、いつの間にか眠り、そして起きた。ベッドからおりて窓を開ける。朝特有の甘ったるい香りを澄んだ空気に感じた。今日の公演が終われば、しばらくは休暇となる。旅行でもしようか。暖かいところに行って、海を見ながら美味しいものを食べるのはどうだろうか。
 寝起きのぼんやりとした頭で、今後の予定をたてながら振り返る。長方形の部屋、その壁の一つに広がるのは、一対の白い羽根。釘で打ちつけられたその羽根に、私は歩み寄り、触れる。厚みのあるそれは、私の手をやわらかく押し返した。
 とても美しく、あたたかい。ハクヤの羽根だった。

 ハクヤが天使だろうと何だろうと、私にとってそんなことはどうでも良かった。昨日のことなど殆ど覚えていないのに、ハクヤのそれを展翅した感触だけは、はっきりと手に残っていた。
 今日の演目は恋に生きる女の転落する人生と狂気を描いたもので、私は主役を演じることになっている。恐らく、この役を演じるのも今日で最後だろう。特に何の感傷も抱かなかったが、少しだけさびしいという気持ちはあった。
 団長の前置き、劇場内に響くブザー音。幕が開き、私は舞台に躍り出る。
 ふと見降ろした客席に、白いちらつき。それは、まるで蝶の羽ばたきのような。新聞紙だった。劇場で新聞を読んでいる客がいる。
 心臓が、大きく脈を打つ。
 新聞に隠れていた顔が見えた。こちらを、こちらを、見ている。笑顔で。
 目の前がくらくなる。終演でもないのに、幕が、下がっていく。幕の外で誰かが挨拶をしているのが僅かに見えた。暗転。瞬間、私はすべての意味を悟る。

                                          (まばらな拍手)



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