キャロル、リュートの音と共に

 一人の詩人がいる。君だ。大きな街道沿いの花屋、その前にある電燈の傍で君は唄う。夜の美しさを、海の静けさを、夢の鮮烈さを、英雄の儚さを。そして、君が好きなそのひとの事を。そのひと? そう、私の知らない女のひと。

 今日も君は唄っている。道を行きかう人々が生み出す雑踏にまぎれて、そこで。ギャラリーはいない。往来を挟んだところにあるオープンテラスで紅茶をすする私意外に、一体誰が君の唄を聴くのだろう。歌声は人々の耳を通りぬけて空に霧散してゆく。孤独。君の唄は孤独にあふれている。
 君は別段歌唱力に秀でているわけではない。並みの人間をやや上回る程度、世界に散らばる歌い手たちよりはやや劣る程度。ただ、君が紡ぐ言葉達はとても美しい。君が視る世界は孤独にあふれている。けれど、とても綺麗だった。

 雨が降りそうな曇り空の下、響くリュートの音色。
 曲調は今までと一変し、穏やかなものへと移りゆく。歌声は段々細く高く、優しく。往来の騒がしさで唄が聞こえづらくなっていたが、何を唄っているのかだけは理解できた。
 そのひと。
 君の唄に直接登場したことはない。けれど、私には分かるのだ。分かってしまうのだ、君の唄を聴く為にここ三ヶ月間通い詰めた私には。夜の音に、海の空気に、夢の色に、英雄の強さに、そのひとを重ねて。そのひとはとても透き通った声をもっている。神秘的な雰囲気をしていて、いつもは静かなのに、感情があふれてしまったときは誰にも手がつけられない。薄茶色の瞳が不思議に光って、とても綺麗だ。人前では何があっても泣かずに強いところを見せるけど、君はそのひとが一人泣いているところを見たことがある。
 その音色が奏でられる時、君はそのひとへの恋慕を唄っている。

 曲は柔らかに終焉を迎え、君は呼吸を整える。群衆の向こう、私は聴こえない筈の君の息遣いを想像した。
 暫しの沈黙を挟む。唄は聞こえない。今日の分の演奏は終えてしまったのだろうか。
 私は給仕人へ勘定を済ませて席を立った。もうすぐ降り始めるのだろうか、ふと、雨の臭いを感じた。人ごみをかいくぐり、君の目の前に立つ。
「今日はもうおしまい?」
 小さくうずくまって、折りたたみ式の椅子をリュックに押し込む君。目前にある私の足、次に瞳だけをこちらに向けた。少し長めの前髪が、さらりと垂れる。
「……雨が降りそうなので」
 私は君の足元にある錆のついた缶、電燈に立て掛けられた木製の箱を見降ろした。缶には数枚の硬貨と、紙幣が一枚だけ入っていた。見物人は私以外にもいたというわけだ。胸中で意味も無く苦笑し、視線をそらす。木箱にはリュートが仕舞われているようだった。輝きのない古ぼけた箱、その蓋には何かが刻まれている。

 ――新しい世界の朝に 僕の唄は必要ない
    君と、君を幸せに出来るすべてが在れば それだけで

「これは? 歌詞か何か?」
 君は私の指差す方向を見て、また私を見る。君の眼球に私がうつっているのが確認できた。
「僕が初めて書いた詩です」
 数秒。沈黙の後、君は元の作業に戻る。
 とても盲目的で、とても孤独な恋の唄。君の視る世界には君はいない。そこにあるのは、君が恋する彼女の笑顔だけ。素敵だと思う、泣きたくなるほどに。
 財布から紙幣をいくらか取り出し、足元の缶に放りこんだ。君はようやく椅子を仕舞いこんだようだった。そして、缶の中身に気付く。
「いいんですか? こんなにいただいて」
「三か月、ただで聴いちゃったから。その分。それに、最後だし」
「何処かへ行かれるんですか?」
「引っ越すんだ、遠くへ」
 良い唄だと思うよ、それだけ言いたくてここに来たんだ。
 口に出そうと思って、止める。君はきっと、私に言われても嬉しくないだろう。
「じゃあね」
 君に背を向け、私は立ち去る。人ごみに紛れる直前、背後で、ありがとう、と聴こえた気がした。歩みは止めない。君の世界に私はいらないから。

 恋をしていたわけではない、と思う。
 出来損ないの恋慕、といってもしっくりこない。嫌いなわけではない。理解しがたい感情が私の中で燻ぶっていた。
 電車の中、一定のリズムが私の体を刻む。行先はとある港町で、私はそこの酒屋で働くこととなっていた。大学を修士したものの働き口が見つからない私を案じて、母が実家の酒屋で雇ってくれることになったのだ。きっと、君の唄はもう聴けない。しかし、あまり悔いはなかった。
 電車は緩やかに失速し、目的地へ到達する。慣性の法則に逆らって席を立つ私を潮の香りが歓迎した。
 私の生まれた町。君のいない町。

 酒屋は割と駅の近くにあって、漁を終えた船乗りたちが幾席かを埋めていた。店内に掲げられた時計を見る。時刻は午後四時、あと一時間もすれば忙しくなるだろう。
 厨房にいた母親に声をかけ、業務用の冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。空いたカウンター席で飲もうと思ったのだ。ガラス製の小さなコップに、水を注いでゆく。細やかな気泡が光をうけて、私の目をちらちらと刺激した。
 唐突に、耳に聞き覚えのある音色が飛びこむ。
 とても短い間だが脳に慣れ親しんだ、リュートの音色。数回音を刻み、一呼吸。曲が始まる。
 ――新しい世界の朝に、
 心臓が、脈打つ。
 ――僕の唄は、
 透き通ったソプラノ、聞き覚えのある歌詞。
 ――必要、
 ない。自分の指先が震えているのに気付く。神はこれを運命と説いたのだろうか。無宗教ながらに驚愕する。振り向くと、店の片隅に位置する小さなステージで女性が唄をうたっていた。愛の唄。こんな偶然があってたまるか。人違い、ということは無い。彼女の歌声、瞳、彼女の全て。わたしは君の唄で彼女を知った。見間違えるはずが無い。彼女が“そのひと”だ。
 きっと君は、彼女へその詩を贈ったんだろう? 君の好きなそのひと。彼女も君のことが好きなんだと思うよ。彼女の瞳にも、君がうつっている。彼女は君を視ている。
 不思議と、嫉妬の念はわかなかった。君の好きなひとは私の好きなひとだから。やはり、これは恋ではない。愛だ。君も彼女も、まとめて愛したい。二人が幸せになりますように。意地の悪い神に、これだけを祈る。

 二人の詩人がいる。一人は君だ。大きな街道沿いの花屋、その前にある電燈の傍で君は恋を唄う。もう一人は、君が好きなそのひとだ。遠く離れた港町、そこにあるさびれた酒屋で彼女は愛を唄う。新しい世界に私の存在は必要ない。君と彼女が永遠に歌を歌える、そんな世界であればそれ以外に必要なものはない。

(fin.)



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