真実と虚偽のアリア
泳いでいたころの記憶は、もうない。
けれど、あの海にいたということだけは覚えている。
ゆったりと躰にまとわりつく海水と、水をかくときに感じる僅かな抵抗と。
失われた記憶は、どこへ行ったのだろうか。
忘れてしまったあの海には、もう戻れないのだろうか。
ここがどこだか分からない。
見渡す限りの砂丘は、砂浜とはまた違う。乾いた砂たちは、海の記憶を戻してくれそうになかった。
海が欲しい。水を感じたい。
単純な欲望は、叶えられそうになかった。
頭上にある巨大な光源が、海では体験したことがないほどの熱を感じさせる。
乾いた風が、砂をさらっていく。吹き付ける砂の痛さに顔をしかめ、辺りを見回す。さざなみの様に幾万の砂が蠢き、さらさらと音を立てる。音、というのも、きっと海には無かった。周りが異常にドライなのは、周りが水で満たされていないからだろうか。クリアである理由は、風があるからだろう。
首元に風が、ナイフのような鋭利さで切りつけた。出血こそしないが、風が吹く感覚も新鮮と言えば新鮮だった。何をしていたか、という記憶はないのに、感触は覚えている。
あの海を。
海を泳ぐ、あの瞬間を。
懐かしさ、というよりも単純に、シンプルな、欲望。
この風では無く、
この音では無く。
ただ一つ欲しいのは。
何も無いこの状況ですることと言えば、歩くことであった。
このまま歩いて行けば、海が見えるかもしれない。
ひたすらに進んで行くと、突然に神様が現れた。
「貴女は誰?」
神様は美しい人で、風にさらわれた黒髪が波の様でとても綺麗だった。
「私は、誰? 何故ここにいるのですか?」
「貴女は人魚。答えはその手の中に」
神様は私の手を指して言った。つられて、私も自らの手を見下ろす。
「貴女のその手の中に何が入っているか、それが分かったら、海に戻れるわ」
私の拳は、自分の力ではどうにもならないほど固く閉ざされていた。
「真実は、忘却の彼方に。未知のものと既知のものの違いは、知ろうとしたものか、そうでないものか。ただそれだけ」
顔を上げると、そこにはもう神様はいなかった。
乾いた砂の地獄が、あたりに広がっているだけ。
神様は私を人魚だと言った。私は人魚だったのか?
拳は閉ざされたまま。この手の中には何が入っているのか、それもわからないまま。
「忘却の彼方」
神様が行っていた言葉。
私はすべてを知っている。ただ、忘れているだけなのだ。
こめかみを軽く揉んでやる。こうすると頭が柔らかくなるような気がして行った動作だけど、あまり効果は出なかった。むしろ、軽い頭痛がして、逆効果だった。
思い出せない。私は何? 人魚。
人魚とは何であったか。自分は何をしていたのだろう。
海で、水の中、泳いで。
それと?
透明な蒼の空間に居たのは、私だけであっただろうか。
「誰?」
声を発したのは私では無く、目前にいる誰かだった。
神様では無い者。人間?
「私は人魚、あとは覚えていない」
「素敵だ。俺は道化師、だった」
「ドウケシ?」
ドウケシというものが何であったか私には分からなかったが、彼は答えてはくれなかった。
暫しの沈黙、そして風がふく。
「ここも」
ドウケシとやらが、ようやく口を開く。
「空が青いんだね」
ドウケシは、違うところで生活していたのだろうか。
ここでは無いところの空は、青くはないのだろうか。
「空よりも、海の蒼の方が綺麗だ」
私に言えることは、それだけ。
「それは素敵だ」そう言って、私に手を振る。何かと思ってぎょっとしたが、ただの別れの挨拶であるようだった。
「さよなら」
口から自然とこぼれた。
きっと、二度と出会うこともないだろう。
行けども行けども、周りは砂だらけである。
水のにおいも、海の気配も、全く無い。
先ほど出会ったドウケシは、何も探していなかった。彼は、何故此処を彷徨っていたのだろう。
何かに出会いたいのだろうか。もしかしたら、誰にも、何にも出会いたくなくて歩いているのかもしれない。私に遭遇したことによってその願望が叶えられなかったのなら、とても残念だ。申し訳ないと思う。
ふと、歌声が聞こえてきた。なんの前触れも無く、ただ突然に。
風に乗った砂の音と、か細い歌声。
心臓が、跳ねた。
辛うじて聞こえるほどに小さな歌声だけど、聞いた瞬間に皮膚が粟立つのを感じた。
鳥肌が立つ。
これだ。
これだ。
この声は。
声の主を探して、駆けだした。
足が砂に埋もれて、非常に走りにくい。
それでも、ただ走りゆく。
息が切れ、心臓が早鐘のように打つ。全身の血液がすべて沸騰しているかのように熱く、耳鳴りも響いている。
体内の雑音に、突風の唸り声に、時折歌声のする方向を見失いながらも私はその歌い手を見つけた。
少女は、そこで歌っていた。
瞳を閉じ、この乾いた砂の海で、ただ歌っている。
まるで、人魚のようだと思った。
「わたしはしんじつ」
少女は歌を中断しそう言った。
「このうたも、わたしもあなたも、あなたがもとめるすべてのものは、しんじつなのだわ」
拳を、そっとひらいてみる。
手のひらの上には何もない。
「ありがとう」
私は礼を言って、それから少しだけ歌を歌って、少女と別れた。
歌ったのは、幾度も歌った古い恋の歌だった。少女と、一緒に。
彼女は私だった。
私は彼女だった。
すべてが真実だということ。
ずっと握っていたものは、閉じ込められていた真実だった。
少女と別れてしばらく進んだところに、海があった。
溢れんばかりの歓喜を抑え、自分を焦らすように入水する。
肌にしみ込んでくる快感に、気が遠くなる。
「ああ」
海。これが。
私が元居た海とは違う。けど、私がいた海と、私がいる海は、つながっている。
海。
深いところに潜ってみると、魚がたくさんいた。屈折した太陽の光を浴びて、とても綺麗だった。宝石のように、というよりは、宝石よりも美しいと思う。
海。真実?
この海は真実。あの砂丘も、少女も、ドウケシも、神様も、すべて真実。私が望んだ真実だ。
海面まで浮上すると、あの砂丘は無くなっていた。
空は青い。海も青い。私は青色が好きだから。
存分に海を楽しんだら。漁船でも見つけよう。歌を歌って、沈めてやるのだ。海の上で死ねるのなら、人間もさぞ幸福だろう。
私が望んだ真実の世界で、永遠に泳ぐ、歌う。
真実が何だか忘れてしまったら、またあの砂丘は現れるのだろうか。
真実を告げに、またやってくる。
それまでは、海で。
《Back|Next》